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代表取締役 宅地建物取引士 サイト運営者 たてやまっと 安房観光図巻 たてやまっとweb商店街 スクリーンの不動産屋さん(準備中)
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昭和43年8月24日、東京都江戸川区小岩生まれ。江戸川競艇場が近く、幼少の頃は堤防や駐車場に落ちている赤エンピツ(今は耳に挟まない?)を拾って遊んだりした。夕暮れ時「お母さんいるかい?」とラジオ片手に変なオジサンが家に来る。スッテンテンに摩られ、帰りのバス賃に困ったあげく買ってくれと言うことらしい。
母親に連れられ、よく住宅見学したことを覚えている。「クレヨンしんちゃん」で有名な春日部市の駅前も当時は田園風景。不動産屋さんは田んぼを指差して「ここに住宅が建ち並ぶよ」と説明していたが、排水がないらしいって言うか田んぼだ。絶句する母に「ここはやめようよ!」と言った。「おまえに分かるのかい?」と母。とにかくそこはマズイと思ったから。
小学校1年生の夏、海のない埼玉県川口市に転居。なぜだか引っ越し当日に風呂場の壁を塗っており、しかも作業しているのは営業の人らしい。どうやら今日は風呂に入れないとの事で、父は怒っている。そう言えば、見学したのは一軒手前の家だった。こういう形式を売建物件と知るのは、まだ相当先のことです。
東京都に隣接とは言え、ここは埼玉県。母親は「江戸っ子だった」を強調する。父親は栃木の人だと思いきや「出は東京」だそうだ。どっちでもいいが皆、原産にこだわる。そんな自分もつい「東京生まれ」と切り出してしまうのは、おそらく血筋ではないか。
卒業後、東京都渋谷区の小さな広告代理店に就職。営業職だけはお断りと思って選んだ会社は、見事に電話セールス。面接当日、指定された駅にはとても大柄なパンチパーマのお兄さんが。良い人だったけど、風貌はヤバかった。職場のお隣には、某芸能人さん所有の「ドレミファ荘」が。四半世紀経っても忘れない、インパクトある名称です。
実家が区画整理に引っ掛かったらしい、さぁ大変だ。きっと値上がりする、今手放しても高値がつくはず。思えば世はバブル期、そんな話ゴマンとあったでしょうけど、何となく騙されちゃいかんと思い、勉強を兼ね不動産業界に飛び込んだ。実に打算的です。
世間はクリスマス。イルミネーションで街が彩られる中、営業部みんなで物件の下見。帰社途中にはすっかり陽も落ち、休日返上した一日に空しい気分。すし詰めのワゴン車からぼんやり街に目をやると、そこに「○○タッキー」の看板が。誰が言い出したのか側道に車を停めて、後部座席をフラットにチキン買い込んでパーティが始まった。ヤケクソで楽しかったけど、みんなどうしているかな。
いつものように出勤すると、玄関前に人だかり。「日向野君、こっちこっち!」呼ばれるまま車に乗り、とある事務所で降ろされると、そこは険しい職場の顔ぶれ。断片的できちんと教えてもらえないが、会社が倒産した。その日は車3台を操り、246号線沿いに駐車スペースを確保する路駐係だった。暖気していると、曇ったフロントガラスに小雪が落ち始めた。外にネオンが輝き、気付くとこのパターン。これじゃダメだと思った。
走るトラックの車体にタッチする小学生、いや大人も。飛脚のお尻に触ると願いが叶うらしいが、危ないです。転職先の不順が続き、ジリ貧の目に飛び込むは、高給で有名なセールスドライバー。なるほどヘビーでした。運よく宅建免許にも合格したのを機に、昔の仲間をたどって古巣へ。どちらも大変ですが、念願の復帰です。
売上、お客様の来店率に社員の定着率。勝ち負けにこだわり、水族館のマグロみたいに泳ぎ続けた。夜間チラシを手に投函したり、退職する人を酒に誘って理由を聞いた事もあった。今は理解できる事が、あの当時は痛みすら感じない。それでは人の痛みに耳は貸せないはずだ。
いつもワイワイ人が集まって、どの辺が仕事だかよく分からない。「そんなに根詰めてやるな!」館山での仕事始めは調子が掴めず、会長の一言に救われた。館山での暮らしは「東京生まれ」や今までのキャリアはさして役に立たない。でも不動産という仕事を介して人と接する中で、自分の在り方が見えてくる。そして人に感謝する大事さを実感する。持って生まれたものと違うから、油断して忘れないように気を付けよう。
◇
ふと車を走らせ、房総半島の最南端へ。転職で悩んだ時も走った。子供を連れて海水浴にも出掛けた。当時は館山自動車道もなく、蘇我から先は一般道なので片道5~6時間も掛かったけど通った。でもまさか住むとは…人生なんて分からない。突端への道のり、幾つものトンネルをくぐり抜け、海を右手に走る。到着の頃には気分スッキリだった。
海に憧れ、気候温暖な、館山に暮らそう。
H23.1.23 |
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